変わり者だらけのこの世の中で、僕はどう生きるのか。

変わり者だらけのなかで僕はどう生きるのか

幼少期から「変わり者」と呼ばれていた。妙に大人びていて何を考えているかわからない目。好き嫌いをハッキリと言いつける災いの口。小中高と、必ず先生と喧嘩したり問題を起こしていたりした。

今では常識という仮面を身につけられるほどにはなったが、それでも変わり者であることには違いない。

きっと、僕は変わり者と言われることで、心底満たされていたのだと思う。「自分は変わり者なのだ。この考え方を持っている時点で、他者とは違う」と、そんなふうに思っていたのだ。

しかし、当然ながらそんなことはない。映画を観続けた高校生の僕は、社会がみな変わり者だという事実に気がついた。だが、それでもなお、僕は逸脱していた。誇大表現ではない。周りからもひたすらに言われ続けてきたし、自分でもそう思う。自慢でもない。これは一つの事実として受け止めてほしい。

だが、いくらここで僕が変わり者であるかを親切に説明しても、読者にとっては1ミリも価値がない。エピソードを語ったところで、僕も満足しない。変わり者は、変わり者であるべき真価を発揮しない限り、変わり者だというだけでは何も変えられないのだ。

では、変わり者が真価を発揮するときはいつだろうか。

それは、周りを巻き込んだときだ。

かの有名な戦国武将の織田信長だって、「おおうつけ」とバカにされながらも天下統一を成し遂げ、現代の教科書に載ったのだ。道端で人目をはばからず柿や餅を食し、父の葬儀に浴衣(今でいう私服)で参列した大馬鹿者だったが、朝廷から「従三位権大納言兼右近衛大将(じゅさんみごんだいなごんけんうこんえだいしょう)」の地位を授かり、天下人になったのだ。

織田信長の生まれた「尾張」のやつらは、誰が天下人になると予想できただろうか?

これは、織田信長が日本という一国を巻き込んだが故に、変わり者の真価が認められたに過ぎない。だからこそ、小さなコミュニティではなく、もっと巨大で数えきれないほどの人間たちを巻き込むことで、変わり者は意味をなすのだ。つまり、変わり者であるが故の、普通とは違う考え方をより多くの人たちに発信し、それが影響を与えて初めて変わり者になるということだ。

芸術家のピカソやダヴィンチだって、変わり者と言われながらも世界に多大な影響を与えた。自分の変わった思考を表現の世界に映し出し、それを見た者に感動や価値を与える。これこそが、変わり者が変わり者であった証。変わり者が真価を発揮するときなのだ。

僕の敬愛する宮崎駿も、子供のような変人だ。「ああはなりたくない」と思うのに、作品はとてつもなく素晴らしい。感動を通り越した価値を与えてくれる。

だからこそ、僕は今に満足したくない。表現を怠りたくない。この思考で誰かに価値を与えたい。すべての人が変わり者であるこの世の中で、自分が変わっていることを証明するべく生きていきたいのだ。誰かに強制されるわけではなく、自分自身の心に従いながら、生きていきたい。

「人生、楽しまなきゃ嘘だ」

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この記事を書いた人

中学高校で映画にハマり、20歳までに鑑賞した作品は1,000を超える。
現在はフリーライターとして、映画のコラムや企業のホームページなどの執筆を担当。映画のジャンルは問わず、面白そうな作品はなるべく映画館で鑑賞する“映画館好き”でもある。

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